猿との苦難


<第三回>

4

 北東へ延びる、何もかもが――車両、線路、駅も驚くほど真新しい電車で都心から三十分。カジヤマから送られた書類に記載された駅の名前を何度も繰り返し確認したにもかかわらず、今降りた、やっとコンクリートが乾いたばかりのプラットフォームが目も眩むばかりに高い高架に沿った駅は間違っているように思われた。カジヤマの地図を信じるならば、なるほど、シナリオのモデルとして選ばれた本物のゴミ処理工場がこの線路の東側に、別の言い方をすれば、俺のいる人気のないプラットフォームの向こうに位置しているはずなのだが、実際にはその方向には現代的な団地の群れしか見えず、それと思しき建造物はこれっぽっちも存在しないのだった。俺は線路の反対側の案内図と比べるために襷掛けにした鞄から書類を引っ張り出した。間違いない、まさしくこの駅だ……。名前が合っているならば、結局のところ、理屈もへったくれもないのだ……。不安をさっさと打ち切り、プラットフォームの真中まで歩いて、物憂げに際限なく空転しているエスカレータで降り、次いで表へ出、正面に、その上を線路が通っているかなりまともな外観の小さなショッピング・センター、一連なりになった洋菓子店、書店、ファストフード店、喫茶店、レコード屋、歯医者……を発見した。そこで本屋へ入り、旅行ガイド―地図の棚へ行くということを思いつき、俺は隣接する都市の一部を含む一万分の一の地図を選んだ。それを持ってレジへ行くとそこで、切り下げ前髪に蝶の羽根型眼鏡(訳注1)の若い女従業員が投げやりな指の動きで俺の買い物金額をレジに打ち、俺が差し出した紙幣を物憂げに受け取り、ゆっくりと釣りを返し、「仕事が嫌なんだったら、そう言えよ、おい!」と今にも暴言を吐きそうになるような態度で紙袋に地図を滑り込ませた。怒りが俺を捉えた――いや、しかし、要するに、これが彼女の仕事のやり方なのだ! なんと失敬な!――とても苛立ったが、例えば仕事に対する誇りを態度で示せ、具体的にはもう少し愛想良くしろ、そしてそれ以上に迅速にやれ、と彼女に教訓を垂れ、忠告するのはしゃべり損をするだけだろう、というのもこのお嬢様は幾許かの誇りを持ってはいるのだが、それは仕事にではなく、もっぱら彼女自身のためのものだからだ。その結果は? 自分のことだけを考え、皆を馬鹿にしているせいで、ついには皆から嫌われてしまうのだ、空虚が彼女の周りに出来上がり、自惚れの重さに圧し潰されて身の破滅へと急ぐのだろう。俺は「かわいそうなおバカさん」と思いながら哀れみをもって彼女を眺め、そして、ひひひ、思いついた、すなわち、ここで彼女の自尊心、それを木っ端微塵にしてやろう! 説明しよう、俺はこれからすぐ彼女に存在すらしない本、ショウゾウヒナヤマの『お転婆の復讐』(訳注2)といったものを探させる。ぱっと見たところ、この店はコンピュータ化されていないようで、彼女はよぉく探さねばならず、そして結局は告げるのだ、「申し訳ありませんが、当店にはこちらの本はございません」と。そこで、俺はクールに――「ああ、ないんだ? うん、じゃあ、いいや、しょうがないね」――、そして伝える、「それじゃあ、うん、『髭は融合する。花飾りの帽子』(訳注3)はあるかな、タンゴ・スクーネのね」、これまた俺の想像の産物。二十回ほど繰り返す操作で、彼女はタオルを投げざるを得なくなり、許しを乞うだろう、「どうかお赦しください、もう駄目です、思い上がりはやめます、今後は仕事に誇りを持ち、迅速に仕事をします」 しかしながら、俺はその考えを実行に移さなかった。なぜか? 理由は二つ。一つ目はもしその措置が俺にとって少しでも気持ちのよいものであるならば、その大いなる教育的価値にもかかわらず、それは嫌がらせでしかなく、そして実際、顧みれば、そのアイディアがこの薄のろに苦難を与えるのは“少しでも”ではなく、むしろ俺にとってすごく気持ちがよいことに気づいたのだ。まず一点。二つ目は俺が抱える個人的な問題で、俺はゴミ処理工場の調査をしなければならず、今のところ、この間抜けを教育すること以上にすべきことがあるのだ。それにしても、とやっと紙袋に入った地図を受け取りながら心中で言った、こいつをこのままにしておくのは、こんな風にこのあつかましい女店員に立ち去るのを許すのは忌々しい、俺は別の試練を、ああ、なんて簡単な事、そして先に想起した二点と矛盾しないものを彼女に与えることにした。つまり、以下の質問をしたのだ、「この辺にゴミ処理工場ある?」 瞬間、彼女は硬直し、俺を上目遣いに見て、次いで何も聞こえなかったかのように、そして忙しそうにしてカウンターの奥へと遠ざかっていく、義憤にとらわれ、俺は大声で質問を繰り返した、「教えてくださいよ、知りたいんです。この辺りにゴミ処分工場はございますか?」 ところが、彼女は見る見るうちに赤くなって、しかし歯を弛めることはない、強情張りめ。傷つけないようにと人が悩み考えてやったのに、こんな風に受け取るなんて! 俺の誇りは刺激されたようだった、そして――「この近所にゴミ処分場はありませんかと俺は尋ねてるんですがね! あなたは舌がないのですか、どうなんです?!」――今度は叫んでいた、その結果、娘は怯えた顔つきとなり、俺は彼女が大量の涙を溢れさせるのを見、書棚の本の整理をしている他の従業員たちの、そこに居合わせた二、三人の客の、そして商店街の中、店外を通りかかったご婦人のまで、視線が俺の上に圧しかかってくるのを感じ、これは俺を気まずくさせた。「知らないんだったら、うん、もういいよ。にしたって、さっさと言やあいいじゃん、ったく、馬鹿女がよぉ!」 鞄に地図を突っ込みながら低い声で吐き捨て、いそいそと店を出た。
 改札の前まで戻り、左へ行って、駅舎の外へ出た、猫一匹いない(訳注4)正面にはロータリー、広場からは等間隔で木の植えられた長く広いまっすぐな道が星状(訳注5)に延びており……、うわあ! ショッピング・センターの人工的な光の中にいた後での強い光に目が眩んで広場でいきなり動けなくなり、瞼をなかば閉じて前を見ている最中だった、背後で叫び声があがるのを聞いたのは、「あいつです! あの男です!」 さあて、いったい何が起きたのやら? 俺は振り向き、縦縞のシャツにマリン・ブルーのエプロン姿の人物が俺の方を手で示し、別の見知らぬ男、緑色の制服制帽姿のに話しているのを見た、男は左手の掌に警棒の打撃音を響かせながら近づきはじめた。まず最初に、おそらくうしろに誰かいるのであろうと俺は自らに言い聞かせ、そして振り返ったが、誰もいない。ふうん、ってことは、俺? しかし何も悪いことはしていない。不愉快だね、クソッ! 俺は右手にあるタクシー乗り場へと急ぎ、列の先頭のに乗って、目的地を告げた、「処理工場」と。ところが無精髭(訳注6)を生やした運転手は返事をするでもなく発進させる動きを示すでもなく、ルームミラー越しに不快な目配せをくれるだけである。そして俺は、広場を横切り、足早にこちらへ向かって来る制服を見た。苛立ち、高い声で繰り返す、「うん、ゴミの処分場ね」、しかしそれでも運転手に運転を促すことはできず、またドアを閉めさせることもできない。その間に、制服はタクシーに辿りつき、大きく開いたドアのところで身をかがめ、かなりつっけんどんな口調で俺に降車命令を通達した、が、この見知らぬ奴からかような調子で声を掛けられる如何なる理由も俺には見当たらないのだ。俺は無視することにし、運転手に声を掛けた、「知らないんでしたら、教えますんで、とりあえず出してくださいよ」、そしてバッグから少し前に買った地図を出したのだが、運転手はまるで反応せず、ふざけるように制服の方を振り向き、くだけた調子で聞いた、「誰なの、彼氏?」、制服の方も同様の嘲笑的な感じを身にまとい――「あん? 知らね、本屋でふざけた真似しやがったらしいんだけど。とりあえず一発喰らわせて痛めつけてみるよ」。そして彼は俺の方を振り向いて、俺を侮蔑的に非難した、「よう、ダチ公、さっさとそこから降りろよ」。しかし俺が親指一本動かさなかったので、彼は身をかがめ、車内に半ば体を突っ込んで――「俺ぁさっさとしろっつってんだよ、糞野郎がっ!」――、俺のベルトを掴み、手加減なく引きずり降ろし、そこで、ドスッ、予告なく、脇腹に膝の一撃、それは俺を二つに折り、息も絶え絶え、奴は俺の腕を背中で捩じ上げ――「おとなしく言うこと聞いてくれよ、なあ!」――、背に回した両の腕を手錠で固定し、髪を掴んで俺を立たせる。運転手へ一言――「じゃあな、兄弟」――、俺への一言――「歩けよ、ほれ急げよ、クソガキが」――そして奴は警棒で小突きまわしながら自分の前を俺に歩かせる。
 様々なやり方――「何をなさるんですか、放してくださいよ、ねえ!」、「人違いだよ」、「俺は何もしてねぇ」――で反抗したのだけれども、奴はまるで反応せず、ベルトを掴み、腰に武器を突き立て、そんな風にして左に進路を取って駅の広場を横切り、三百メートルほど高架沿いを歩いた。そこでは、駅付近と同じ白いモザイクの洒落た外壁は終わり、もはや高架はところどころで筋を引いて落ちた水のしみや泥で汚れたコンクリートの壁の連続でしかなく、トンネルの内壁の中に掘られたような、七、八メートル四方の扉も飾り気もない小部屋に俺を押し込んだ。俺はゆっくりと立ち上がり、でこぼこになった金属製の戸棚、事務机、椅子、そして机の上に口の欠けた急須、茶碗、ダイヤルのなくなった古い黒電話、クリネックスの箱などを見分けた、それらすべてが復元に失敗した映画用の警察の部屋のような印象を与えていた。で、いったい何なんだ?! 俺は穏やかな口調で話すよう努めた、「どのような権利があってあなたは私を逮捕するのですか? そもそも私は何もしてませんよ」。相手は部屋の隅でわずかに微笑むばかりで何も言わなかった。警棒と軍靴の小突き攻撃が一時的に止まったのに応じて精神の安定を取り戻し、俺は冷笑を浮かべている男に言った、「これはあなた、傷害罪に該当しますよ。不法監禁だ。ふざけて言ってるんじゃないよ。すぐに手錠を外しなさい、さあ」。唇にはまだ微笑。奴は入り口近くに立っており、俺もまた微笑を浮かべながら近づいた、「冗談なら、目をつぶってやる。急いでるんだよ、まじで。ほら、外してくれ。大丈夫。訴えたりしないから。な? 早く外してくれよ、おい。急いで、ほら」。そして俺は背中を奴に向けて手錠を外させようとした、が、その瞬間、聞こえたのは何だ? 短いメリッという音、一瞬我が身に起こった事を理解することができない。俺は床に転がり、奴は俺の喉仏に警棒の先端を押しつけていた。「てめえは誰に向かって話してんだ、小僧、あーん? 誰に向かって話してんだよ? 言ってみろよ、ほれ、言えよ! どうなんだ? はっきり言えよ、聞こえねぇんだよ。ああーん??」。そして俺の脇腹に編上靴で強烈な蹴りを加えた。鈍い痛みが後頭部を捉え、息を吐くこともできない、俺は体を丸めて頭と脇腹を守り、どうにか叫びをあげるのに成功する、「や、やめてくれ!」、奴は殴打をやめたが、俺の腹の上に右足を乗せ、子ども向けの人形劇(訳注7)でしばしば見られるかわいらしい仕草で右手で筒を作り、体を俺の方へ傾けた、「あん? 何だって?聞こえないよ!」。やっと話を聞く気になったと見えたので、俺は残された声を集め、呼吸困難を起こしてぜえぜえ言いながらもどうにかこうにか言葉を発した、「やめ……、暴力はやめてください!」、それはすぐに彼の顔に無理解の表情を生じさせ、そして何が何だかわからないといった様子で、「暴力をやめろ? おまえは俺にそう命令するんだな? 暴力は非難すべきことだ、だからやめなければならない、そうなんだな? 偉そうに命令しやがって! 自惚れ屋が真理の名において語るんだな! 正義の守護者を気取って。この俺に、カス野郎が、ふざけやがって!」。そうして、奴は棒を振り上げ、即座に俺は身が縮むように感じ、恐慌にとらわれて、叫んだ、「やめてくれ、頼む。お願いです。ごめんなさい、お願いですから!」。奴は「いい子ぶるのが遅かったな、間抜け。おうよ、馬鹿野郎、てめえのせいでこうなったんだ! そんなに簡単に上手くいくと思ったら大間違いなんだよ。おい、おーい、なあ、本屋で何やらかしたんだよ、馬鹿野郎、ああん? ああ、ったくよぉ、おい、ぶっ殺してやんよ!」。極度に興奮し、奴は縮こめた腕の上から俺を殴打したが、完全に怒り狂っているようだった。俺はより一層と体を丸くし、腹と項を守ったが、やがてよく鳴り響く殴打の雨霰は徐々にぼやけていき、ももはや痛みすらも感じなくなり、奇妙なことだが、妻の顔や亡くなった父の顔が頭の中に現れ、しばし後に俺は意識を失った。

訳注1 フォックス型眼鏡
訳注2 原書では『ぼんぼらの復讐』となっている。
訳注3 原書では『髭の融合・その花笠』となっている。
訳注4 原書では、“まるで人影のない”となっている。
訳注5 “放射状”
訳注6 原書では“泥鰌髭”となっている。
訳注7 原書では“ぬいぐるみショー”となっている。





 




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