猿との苦難


<第四回>


 騒がしい声を感じつつ意識を取り戻した俺は地面に横たわっていた。頭の中ががんがんする、体中の関節がずきずきする、口の中がねばねばする。立ち上がろうと虚しい試みを何度かした後、そのたびに唾と血と折れた歯の欠片を吐き出しながら、俺はようやく体を半ば起こし、頭を振った、ここはどこだろうと自問して周囲を見回す、焦げ臭い匂い、濃い靄が辺りを漂っている。俗に云う地獄ってとこか? しかしよく見れば、左手には草に覆われた土手があり、右手にはコカコーラの看板、線路の枕木、鋸で切られた電柱、たくさんの不揃いの仕切板、汚いなまこ板、そしてその他様々かつ雑多な材料を寄せ集めて構成したバラックが互いに三メートル程度離れてあらゆる方向に向いて建っている。おや、まだ地獄じゃないようだ。そこで俺は、二メートルほど先、焚火の周りで議論している小さなグループの存在を知り、声の出処がそこであることを納得した。立ち上がって躊躇いがちに火へと歩みを進めた。「あのぉ……」、俺はもっとも近くにいるのに声をかけ、彼が振り返るのを見て飛び上がった、六十歳くらい、ドレッドヘア、墨を塗ったような黒い顔でくるみ染料で煮たような服(訳注1)を着ており、彼の仲間もみな同様である。とは言え、今の俺の状態も、彼らと大した違いはない筈で、ここがどこか聞かないと。気を取り直して、ふたたび男に声をかけた。「ええと……」「ダダ、デッタン」「すいません」「ボンボボビダン」「ちょっといいですか?」「ババババ」。まるっきり理解のできぬわけのわからない言葉。もはや如何なる態度をとればよいのかわからない。最初はそこには男しかいないのだと思っていたのだが、俺の話し相手の脇に座った年老いた女が俺の方を振り向いているのに、そして飲む身振り手振りをしながら酒で満たされたガラスの器を俺に差し出しているのに気づいたのはその時だった。しかしそのべとべとのグラスには黒っぽい液体が入っているのだが、それは酒と思しきものだけではなく、その底の沈殿物に、米粒のような何かに不快感とともに俺は気づいた、つまり飲めたものではない代物なのだ。グラスを手に、俺はごまかすための微笑をこれ見よがしに老婆にしてみせたが、どうやら彼女は俺の態度を遠慮と受け取ったらしい、というのも俺に飲むように奨めるために今まで以上に激しい身振りをしたのだ。火の上には煤の厚い層で覆われ、茶色っぽい形容しがたい得体の知れない混ぜ物でいっぱいの鍋が置かれていたが、その中ではヘダイの頭(訳注2)やライスボール(訳注3)がかくれんぼをしており、とにかくもっともおぞましい光景のように思えた。俺がグラスを手にしたまま当惑している間にも、他の連中はわけのわからない言葉を話しつづけていた、「ボーダス、ボボリダヤ」「ドーシリマジレ」「ダヤ」「ダヤ……」、時折笑い声も聞こえるようだ。俺はだんだんと途方に暮れていったが、突然誰かが明らかに日本語で「おい!」と呼びかけ、すぐにさっぱりとした服装――ジーンズにトッティーが描かれたトラックスーツ(訳注4)――の若者がこちらへ近づいて来るのを見ると、グラスを地面に置き、やっと母国語を話すのを聞いたことで大きく安堵したので、どうにかこうにかしながらもそちらへと歩いていった。「気が付いた?」と、背の低い男は俺に声をかけたが、俺は曖昧に「ええ」と言うばかり、――そりゃそうさ、だって、あんなことの後だし……、それに彼に対する態度をまだ決められずにいたし――、それに対して彼は微笑みながら「死んでると思ったよ、なあ、あんた」と応えた。俺は思い切って囁いてみた、――「ええと、どこなんだろ?」――、彼はそれを無視し、楽しげな大演説に乗り出した、「草の上に長々と伸びているのを見つけたんだ。もし俺がほっといたら間違いなくそのままになってたね。ほら、こないだ、こっから遠くない所で死体が発見されたろ。真っ黒焦げの。それに野犬がうろついてるんだよ。こないだスポーツ新聞(訳注5)にガキが喰われたって出てたよ。何でか知ってるかい、はらわたが……」。俺は彼の言葉を遮らねばならなかった、「すいません、ここはどこですか? 家に帰りたいのですが」、と。彼は不満に口をとがらせ、急に横柄な口調になって、「ちょっといいか、あん時俺がシカトして拾ってやらなかったら、あんたやられてたんだぜ。せめて感謝くらいしてくれよ」「そうでした、すいません。どうもありがとうございました。助かりました」「そうじゃねぇ。誠意を見せてほしいんだよ。そう、それ、誠意だ。いちいち教える必要のない歳のようだし(訳注6)、なあ、誠意の見せ方ってやつをさ」「はい? どうすればいいんでしょう?」「くそっ、マジでいちいち説明しなきゃなんねぇのかよ。あんた財布持ってる?」 あっ! 俺は大慌てで上着の内ポケットをまさぐったが、その動きがあまりに急だったので激しい痛みが横腹を走り、一瞬間息が詰まった、しかし財布はそこにあった。安堵、でも束の間、俺は二度目の叫びをあげた。書類やカメラの入っていたバッグがなくなっていた。しまった! 俺は若者に言った、「財布はありました、でも鞄が……」「なあ、はっきり言って、あんた、大袈裟だと思わない? 財布があった、良かった、な、ラッキーじゃん。まったくよ、クソが! オーケー、ホントのこと話してやるよ。たしかにゼニを全部かっぱらってあんたを見捨ててくることもできたよ。なのに俺はわざわざあんたを車に乗せて丁重にここまで運んだんだぜ。軽かなかったなぁ、相棒」「それは本当に、ありがとうございました。でも、鞄は……」「俺が行った時はもうなかったぜ、信じろよ! どうなったかは知らねぇ。まああんたが望むなら、あそこへもう一度連れてくけど。いやだろ? よし、聞け、俺たちの間ではっきりしていること、つまりそれは、誰かがあんたの命を助けてくれたら、普通だったら少しでも金を払うだろ? ってこと」 そこで、俺はやっと彼が言わんとしていることを理解し、財布を出して一万円を彼に差し出した。彼は満足げにそれを受け取って、「そうやって理解できりゃ、いいのさ」と呟き、あばら家の方へ戻っていきかける、「ああっと、すいません……」「何?」「最寄の駅へ行くにはどうすれば?」「駅!」「ええ」「駅はないよ」「駅はない?」「歩けば二時間以上かかる。もう夜になるし。それに犬もいる。そんなに怪我してちゃ、無理だろうな」「そう、ではどうすればよいのでしょう?」「俺が知るかよ! でも、うん、クルマでそこまで連れてってやってもいいよ」「でもそれにもまた、誠意を見せる必要が?」「そりゃ、当然そうしなきゃならないだろうね、うん」「でも、誠意は、もうほとんどないんだけど……」「ああ、さっきの半分、それで引き受けるよ」「それなら、お願いしようかな」「オーケー。ついて来な」 そして彼は大股で歩きはじめ、しばしの後に振り向いて、「暗くなってきた、穴に落ちないよう注意しろ」「穴?」答えずに彼は左前方に手をあげたのだが、そこには直径十メートルの巨大な穴があり、底深くで炭化した堆積物が黒い灰となって、濃い煙をたてていた。
 真っ暗な荒地のような場所を突っ切って車を走らせた後、そこかしこに住居の灯が現われると、彼は何気ない調子で聞いた、「どっから来たんだい、あんた」「東京」、疲もあったし、とりわけ少しでも誠意をもって接すれば彼に害意のないことがわかって、俺は気軽に答えていた。彼は前を見つめたまま応えた、「忠告だ、あんた、気をつけろよ。なあ、まず、カメラなんか持ってぶらついたり地図を買ったり、人に気付かれずに済ますにはそんな風にはしないよな、逆だろ。おそらくあんたは自分に注意がいかないだろうと思ったんだろうけど、そんな仕掛けじゃ誰もだませないから、な」「何のこと言ってるんだ?」「いずれにしろ、やめとけよ。連中、神経すり減らしてるし、ちょっとした事でぶっぱなすから。そこの団地じゃ畸形のガキが生まれつづけてるらしいし。そうは言っても、俺の場合は何も騒ぐことはないんだけどね、二股かけて稼いでるから、仕事に関してはね、常にゴミは供給されるし、誰かがそれを回収しなけりゃならないんだからな、だろ? でも余所者が首を突っ込む(訳注7)とまず戦死するね、うん」「でも俺はシナリオを書くだけで、他には何も……」「やべぇよ、そりゃ、あんた。無茶なこと考えるなぁ」 そしてそこで出し抜けに気取らない聞き古された歌(訳注8)を歌いはじめた、「捨ぅてぇたぁあなたの過去ぉ、知ぃりぃたぁくないぃ……(訳注9)」
 三十分後、大きな橋を越え、侘しい紙ちょうちんで飾られた無人の商店街の間のゆるやかな坂(訳注10)を下りて、俺たちは灰色がかった通りの突き当たりの慎ましい駅舎に到着した。「うん、よし、じゃあな」 そんなふうに降りるよう促され、俺はある事を思い出して彼に言った、「ええっと……」「何?」「さっきの誠意なんだけど……、領収書貰える?」「何で俺がそんなもん持ってんだよ」「よし、じゃあ……」 俺は財布の中でいちばん手前にあった名刺を出して「そこに書いてくれない?」「何て?」「言うよ。まず、額だ。“二万円”」「二万? 俺は一万五千円しか……」「それがどうだっていうの? 二万円って書いてよ」「つまんねぇ奴だな、おい。まあいいや、じゃあ、“二万円”」「さて、“下記に署名した者はこの金額を受領しました”」「面倒くせぇな、くそっ……、“この……金……額を……受領……しました……”」「なあ……」「まだ何か?」「そのちっちゃくて雑な字は何とかならないかな、読みやすい字にさ?」「ガタガタ言うなよ、ったく」「今度は“但し”……」「ああん? “誠意として”って書いて欲しいのか?」「そりゃまずい。そうだなぁ……、じゃあこう書いてくれる? “但し取材……”」「“取……材”? これで全部?」「いや、“協力費として”」「“協ーーー力費”、よし。次は?」「宛名が残ってる」「誰?」「“カジヤマプロダクション様”って書いてくれる?」「“カジヤマプロダクション様”、よし。終わった」「次は……」「くそったれ! まだ何かあんのかよ?」「いちばん大事なところだよ。あんたの名前だ、さ」「何だって? 名前書けってか? そりゃあ、駄目だね!」「何で?」「あんたが俺に金をくれたことがわかるようなものは残さねぇよ」「ちょっと言わせてもらうけど、あんた、俺のこと思い違いしてるよ。俺は別に……」「ああ、いいんだよ、人生用心深い方がいいんだ、どんな時もな」「しょうがねぇな、よし、好きに書いてくれ、まじめな感じのやつな(訳注11)」「まじめ? よし、マジダトーゾー(訳注12)でいいか?」「それがいいなら……」「うん、よし、マジダトーゾーにしよう……。これでいいか?」「いいよ。よし、じゃあ」「じゃあな……」 手で合図をしてマジダトーゾーが出発するとすぐに、俺は切符を買うために駅に入って壁の路線図を見たのだが、カジヤマの地図が相当におかしいのか、マジダが警戒してかなりの回り道をしたのか、いずれにせよ、東京の中心からわずか三駅を隔てるばかりだった。さらに、行きに利用した線はまるで見当たらず、駅やその他のあらゆる物が古く、摩滅したような印象を与えるかのようだった。俺は切符と、初めて見る商標の、缶のラベルに相撲をとっている福助(仏訳注1)が描かれている缶コーヒーを買い、電車の到着を暗いホームで待った。
 へとへとに疲れて我が家に戻った時には一時近かった。玄関を開けるや否や、家を離れる前に撒いた殺虫剤のつんとする臭いに襲われ、廊下を歩くたびに床板の上に沈殿した薬剤を舞い上げたが、それは喉と目ををひりひりさせ、足をべとつかせた。俺は電気をつけ、廊下一面が例の食肉虫の死体の、さらにまた謎の、吐き気を催させる光景の下に覆い隠されているのを見つけたが、まだ頭がひどくがんがんしていたし、くたくただった。「明日、明日……」、そう呟いて、殺虫剤でべとべとの蒲団に包まって、気絶するように眠りの中に崩れ落ちていった。

仏訳注1 福助、“マスコット”、嬉しそうに微笑んだ顔、昔の服装をし、座った姿
      で表現される短い上半身に不釣合いな頭の人物。家に幸運、幸福を運ん
      でくると見なされた人形、もしくは図像。

訳注1 原書では“煮しめたような服”となっている。
訳注2 原書では“鯛の兜”となっている。
訳注3 原書では“握り鮨”となっている。
訳注4 原書では“トーティーちゃんのトレーナー”となっている。
訳注5 仏訳本では“(三流の)新聞”、原書ではただ“新聞”となっている。
訳注6 原書では“見たとこ、あんたもいい大人なんだから分かるでしょ”となって
     いる。
訳注7 仏訳を直訳すると“鼻を突っ込む”になる。
訳注8 原書では“とてつもなく古い歌謡曲”となっている。
訳注9 原書では“あーなーたのーかこーなーどーしーりーたくなーいわー”と
     なっている
訳注10 原書では“鈴蘭燈の侘しい寂れた商店街のだらだら坂”となっている。
訳注11 原書では“しょうがねぇな。じゃあさ、なんでもいいよ、適当な名前書いと
      いてよ”となっている。
訳注12 原書では“てき山トー蔵”となっている。





訳者あとがき
 やはりこれは難しい。原書の面白さの十分の一も伝えられるのかどうか? というのも、以前にも書いたが、町田康氏の作品の面白さというのはその言葉、文体にこそあるのであって、それを仏訳したものをふたたび和訳したのではまったく面白くない。
 それを面白くしようとすれば、やはり町田氏の模倣となってしまうだろう。が、それではこっちが面白くない。で、なるべく仏文に忠実に訳そうとしているのだが、これがまた原書を読んでしまっているのでなかなか簡単にはいかない。つい町田氏の文章に引きずられてしまうのだ。

 今回は、例外もあるが、人物名はカタカナ表記をすることにした。
 また仏約本にある注は仏注、吾輩が入れる注を訳注としている。




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