猿との苦難



<第一回>

1

 「もっと有意義な生活を送りたい」
 この言葉を残して妻が英国留学して以来、次から次へとあり得ないことが起こり、まず最初の、そしてけっして些細でないのがこれである、すなわち仕事上の問題の完全なる逼迫。街をぶらついていた頃、いいかげんな交際のおかげで俺は適所を見つけだしていた、ロケ撮影のたびの交通整理、そして、ついにはささやかな手伝いをした撮影班に片足を突っ込むに至ったのだが、言うまでもなく、御意のままにこき使われる賦役者。下っ端。怒鳴られ、右へ左へ追いまわされ、要するに、何の楽しみもない、これはこんな調子で続くにちがいなく、梯子はずっと上の方で皆に段を塞がれて、すぐにカメラのうしろに回ることもない。そこで、ついに……、理想的な方法! シナリオ、徹夜で一気に書いたのが、プロデューサーの目を惹いた。これでかれこれ十五年。以来、クソのような作品を書くこともあったが、いちおう脚本家の肩書を得て、食うに困ることはなかった。ところが、ペンを走らせるどんな小さな仕事もなくなって三ヶ月が過ぎようとしていた。やむを得ず、情報収集のために多少なりとも知り合いのプロデューサーや監督全員に電話をかけたのだが、ほとんどの奴が留守番電話の利用者のようだった。そして彼らの一人がやっと受話器をあげる決心をした、それは俺をサラダ風に切り刻んだ、「この時期みんな厳しいんだよ。規模の小さい企画はみんな没さ。何かあったら、すぐに連絡するから、絶対だ。近いうちにいっぱい飲ろうぜ。電話するよ」、けっこう! しかし電話の内容にもかかわらず、俺には奴がまるで差し迫った尿意に苛まれているように電話を切りたがっていると感じられた、で、俺としては諦めるしかなかった。そしてしばらく後に、スポーツ新聞で彼の製作した最新作が発表されているのを発見し、クビになったのを知るのだった、それがなぜかはわからないのだが。時には喧嘩をしたこともある、常に上手くいっていたというわけではない、しかし、これまで長い付合いだし、何か行き違いがあるとしか思えない。電話で逃げられる惧れがあるのならば、直談判! と独りごちて、業界人が通う酒場を梯子酒。が、――示し合わせて河岸を変えたのか?――どこも、知らない顔しか見つからない。ママ――普段はとても愛想のよい――までが、ぎょっとした様子で、他の客の前からまるで動こうとしない。すぐに尻尾を巻いて家に帰るのも情けなく、しがみつき、豪勢に飲み喰らい、見知らぬ隣客に激論を吹っかけ、そして俺を睨みつける女主人からこう言い渡されるのを聞くのだった、「もうお店には来ないでちょうだい」、そしてこうしたことが数度続き、要するに、至る所で俺は招かれざる客となったわけだ。こんな状況で一杯飲る所、あそこが駄目なら……、くそっ、情ねぇっ! かくして水割りの小壜、サラミなどを買いに角の酒屋へ出かけたのだが、そこもまた惨! と言ったって俺はほとんど何もしていない、そこの嫁の失態だ。二十四、五歳の女、微笑むと生える笑窪のある美人――というかそれに近い――で、つまり、まったく可愛らしいやつ、いや、俺が言いたいのはだ、必要以上に愛嬌があるってこと、品のねえ女だ、まったく! それまで配達に専念していて、ゆえに店にはけっして出なかったその亭主も若妻から一秒たりとも離れたくないのか、ともかく、その夫婦はまるで飾り棚の上の三月三日の祭(仏注1)の人形のように、会計カウンターに鎮座ましましていた。そして亭主殿に一生懸命に仕事を覚えようとする感心な若妻と見られたく、下手な演技をする彼女は極力声帯を震わせないようにするせいでアマガエルのような声を使い、あたかも上手く発音できているか確かめようとするかのように語尾をあげながらたどたどしく話す、中学の学芸会で台詞を読む本物のガキのよう、「はい。ありがとうございます。ええと、ピャー。ええと、ピャー。ああっ、間違えた。ピャー。わあっ、わかんない。ピャー。ちょっとお待ちください。ピャー、ピャー、ピャー」。これでは切れて当たり前! おい、バカ女、俺が客だってことを忘れてるんじゃないか? この金はな、おい、馬鹿みたいに辛い思いをして稼いだ金なんだよ、脳味噌こねくり回して、わけのわかんねぇ話を苦心して書き上げたんだよ、ウィスキーの代金として支払うのがその金だ、なぁ。自分を何様だと思ってやがるんだ? あほんだら、こんな風に罵倒してやりたい。当然である。はっきり言って、あのクソ女は、ウィスキー水割り十本、サラミ、正方形の箱に入ったスノー・ブランド・チーズ(訳注1)、セーラム・ピアニッシモ四箱をレジ打ちするのに十八分を要したのだった。それまでは、怒りを抑制するのに成功していた。が、女がふざけきって「はい、ありがとうございました、ピャー」というのを聞いたとたん、くそったれ、何かが俺の中で切れた。バチンッ! 俺は自分がこんなことを怒鳴るのを聞いた、「おまえ幾つだぁ、ネェちゃんよぉ、あぁん? 客を馬鹿にしやがって、おい、この野郎! はっきり喋れ! ピャー、ピャーって、何だそりゃ? まったくよぉ。いいかげんにしねぇと絞め殺すぞ!」。次いで、すぐに彼女を守りに入った夫、その面に俺は悪罵を吐きつける、「おまえだって似たようなもんだ、バカ野郎! てめぇのかみさんがぐずぐずやってんのを見て、阿呆みたいにニタニタ笑って何ぼけっとしてやがんだ? ちったぁ客の身にもなれってんだ、クソ野郎!」――このことは結局俺の身に逆に降りかかってきた。と言うのはそこの婆さまが町中でこんな風に俺をけなしはじめたからだ、「佐志さんは奥さんと別れて頭がおかしくなり、うちの店で事件を起こした」、と。この日以来、人々は俺を以前とは違うように考えはじめた。あるいはむしろ俺のことをまるで考えなくなったと言うべきか、通りで出会った時に視線を合わせないのだ。俺の方は、無実だ、俺は狂っていない、おかしいのは向こうの方だと反論したかった、しかしもしそれを言えば、ますます気違いじみていると受け取られる可能性が大である。我慢だ、そう、歯を食いしばれ、悪い時は通り過ぎる、みんなこの辺りでは多かれ少なかれあの店で酒を買うのだ、俺はとても楽観的に自らに言い聞かせた、みんなだんだんとあの嫁がおかしいことに、そして佐志は間違っていなかったと理解するだろう。その事件以来、亭主が妻を店の奥に遠ざけてしまったらしいことを除けば、何も変わらず、俺は相変わらず疑惑の的だった。もしもまだそこにいたならば! しかし俺はもうあの店にあえて行こうとは思わず、そしてあれ以来そこここの飲み屋で出入禁止になっており、別の酒屋でいちばん近い所と言ってもけっこうな道程で、おそろしく不便、俺の日常生活は悲惨なものとなったのだった。
 飲屋で仲間はずれ、町では要注意人物、本物の災厄の連続を生きているのだが、それは我が家の門でも止まらなかった。妻が出て行き、狭いながらも楽しい我が家に気を配る者はもう誰もおらず、玄関から続く、家の真中の長い廊下に分けられて、右に、書斎代わりに使っている三畳の小部屋、浴室、トイレ、そして左に、それぞれ六畳と四畳半の二部屋、その至る所に脱ぎ捨てたままの衣服、空瓶、缶詰、冷凍食品の残骸、折鶴などがごちゃごちゃに散らかっていた。隣人に会うことを考えると覚える面倒臭さによってますます怠惰になって、ゴミを出さず、それはポリ袋の中で腐りはじめ、異様な腐敗臭を発し、今や家の中に満ちていた。六畳の部屋に敷きっぱなしの蒲団の上にあぐらをかき、掃除しなければならないなぁ……と呟いて、しかしその気はなく、ゆっくりと辺りを見回して、奇妙な小蝿が引戸の壁を覆っている――いつの間に現われたのやら――のを知ったが、刺すでも噛むでもないようなのでそっとしておくと、小蝿はおよそ二センチほどの虻と雀蜂の合いの子のような、真っ黒の怪物じみた虫に変態し、見るにつけ気色悪く、信じられないことだが、部屋の中をぶんぶん言いながら我が物顔で飛び回り、その怪物が電灯の笠や他の物にぶつかるたびに乾いたバシッ! という恐ろしい音をたて、俺はびくっと飛び上がる、つまり、俺はもはや屋根の下でさえも落ち付いていられないというわけだ。付け加えるに、その昆虫は食肉種、吸血種らしく思われ、時折口に失血死した蜘蛛をぶらさげている――どうやら奴らは、怖くて開けないようにしている天袋の中に巣をつくっているようだ――のを見た、さらにその小さな世界は徐々に、しかし確実に仕切りの上を移動しており、狙われるのではないかという抑えがたい恐怖によって倍増した深い嫌悪感が生じ、その結果、やむを得ず俺は獰猛な肉食虫が空中旋回する部屋を放棄し、四畳半の狭い物置にいるのだったが、うんざりだ、羽のある連中は最初の陣地を離れ、家全体へとその領土を次第に拡大していったのだ。昨日は流しでその虫の真っ黒になって蠢いている群を見つけ、湯を沸かすのを諦めた、ひどくがっかりし、悲嘆に暮れて、楽しみにしていたインスタント・ラーメンを捨て、予定を特別に狂わせて代わりにパンを小部屋で食べたのだったが、そこでさえこのままずうっと維持できるか覚束なく、事の根本に遡れば、もっともそれは避けようとしてきたことなのだが、というのもそれが気分を滅入らせるからだが、そもそもいつまでこの家を所有できるかどうかわからないのだ。
 愛しの妻の旅立ちからたしか十五日程して、俺は義父から突然の電話を受けた、――一度だけなら癖にはならない。低いむっつりとした声で「もしもし」と発音された途端、俺は嫌な予感に襲われた。俺たちが、俺と妻が住んでいるこのとても古い家は義父の所有物、義父の会社のたくさんある不動産の一つで、俺たちは結婚に際して七年ちょっと前にここに引っ越してきた、と言うのもその頃の俺のアパートでは少しばかり狭いことが判明したからだ。妻は他の場所で暮らしたい、この古いあばら家より素敵なアパートがいいと抗議したが、オーケー、運が向いたらすぐに引っ越すという条件で、月八千円で義父からこの家を賃借りしたのだった。ひとたび所持品を家に入れたら、時は過ぎ、そのままになっていたのだが、やがて俺と義父の関係は悪化した。何故かを説明しなければなるまい、ある時、俺は落ち目の若手女優が主役のヴィデオ作品の脚本に狂ったように取り組み、原稿の締切ぎりぎりになっても無駄に大変な努力をしていたのだが、最悪の極悪人、おぞましき獣、下劣の権化を登場させてこの窮地から抜け出すことを思いついた、が、不幸にも、年齢、職業、身体的特徴、その他諸々を周囲の人間から着想を得てしまったのだ、つまり義父だ。なあにかまうものか、俺はかなり気楽に考えていた、何も言わなければいいのだ、義父がそれを見るわけがない、と。しかしながら、結局義父はその映画を見てしまったのだ。以来、俺たちの間はうまくいかなくなり、妻が巧みにそこを繋いでいたのだ。だからこういう場合、俺の存在は事態をややこしくするだけなので、義父に会うのは妻の方が好いと思うのだが、当の本人は俺をほったらかしにしており、俺自身――不安だ――が義父の指定した待ち合わせ場所、地下鉄の駅前にあるゴルフ練習場の喫茶店に行かなければならなくなったのだが、やっぱりだよ、そこで義父はまったくとんでもないことを俺に告げたのだ。家を解体し、そこにマンションを建設したい、従って俺はそこを短期間のうちに、できれば一ヶ月以内で明け渡さねばならない、と言うのだ! 俺は財政的問題でしばらくの間は身動きが取れないこと、即刻それを実行するのは不可能であることを義父に理解させるために慌てて詳細なレトリックを開陳したが、壁に向かって話すようなもの、義父はこうして会話を独占し終え、――「話はこれだけだ。もっとまともな仕事を見つけて、稼ぎなさい。じゃ、失礼するよ。勘定は私がする」――立ち上がり、出て行った。一人残されて諦観にとり憑かれ、紅茶のカップを下げに来たウェートレスにビールの小壜を命じ、ぼうっとして、窓の方を向いてその向こうの景色を眺めた、真昼にここで小さな白いボールを遠くへ飛ばしているこの人たちはかなり羨ましい環境を享受しているのだななどと考えながら、ピーナッツを齧り、ビールをちびちび飲った、そして結局ビール六本を飲み干して席を立ち、やがて、ふらふらした足取りで、我が家へ戻ったのだった、どうしようと低い声で呟きながら。どうしよう、だって? その疑問の虚しさを自覚してなお、なぜこんなことを考えなければならないのかと道中ずうっと考えていた。




 仏注1 三月三日の祭、あるいは雛祭、その祭のために、人々は平安様式に豪華に飾られた一揃いの小さな人形を(それを持っており、それを置くのにじゅうぶんな場所がある場合は、そうでない時はより簡素な形で)出し、五段の飾り棚に置くが、その段のいちばん上を皇帝夫婦、他の段はその取り巻き、そして一いちばん下を楽士たちが受け持っている。


訳注1 雪印6Pチーズ






 




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