猿との苦難


<第六回>

7
 「恐れ入ります、本当に……」「いや、それほどのことでも。少しも問題ございません。それよりも、お義父さまのお具合は如何です」「ああ、もう心配してません。それに義母に連絡しましたし……」 ああ、そうさ、混乱の只中に、少しも慌てた様子もなくようやくBMWから降り立ったカジヤマは俺を助けてお義父さんを最寄の病院へ運び、その足で、俺たちは今、調査しなければならない場所へと車を走らせているのだった。朝の出来事のせいで、運転手を務めてもらって少しばかり感謝を覚え、俺は彼に示すつもりでいた不平不満を言わないでおくことにした。カジヤマは高速道路に乗り入れたのだが、少し前からある事が俺を悩ませていた、すなわち彼のハンドルさばきである。というのも、たいそうな年寄なのに、カジヤマは猛スピードで車を運転するのだ。もしも彼がまだ腕のいい運転手だったなら、しかし残念、それはまさに皆の迷惑だった! すでに一般道で、死ぬ程の、恐怖! で、「ああ! そっち、ぶつかる! そっち、事故よこんにちは!」ということが一度だけではなかったのだが、そうして、今メーターを見て、うわぁーおう! 百六十キロ! そして俺たちの前をのろのろと走るのはタクシー(訳注1)……、どうするんだ? 肩越しに一瞥すれば、列をなした車が見える。何だってんだ、まったく、わがカジヤマは方向指示器を出すどころかバック・ミラーを見やることもなく、平然と右の列へ滑り込んだ。幸運だったのはうしろの車が事故を避けるために急な減速をしたことだが、それでもなお俺が生よりも死に近いことに変わりはない。そこで、俺は彼に話しかける決心をした、「カジヤマさん、ゆっくり行きましょうよ、時間をかけて……」「まったくそのとおりですよ、先生。そう、ゆっくりとね。慌てる必要はない、まったくございません。我々にはまだたっぷり時間があるのです。簡単に申し上げれば、おわかりですよね、問題は即座に片付けるだけではございません。例えば一昨日先生がお会いになった災難ですが、いやまったく、先生、この予測不能の出来事がまさにそうでして、それは創造的想像力に刺激を与え、シナリオに深みと厚みを与えるのです、というのもシナリオというものは、結局のところ、五十年来の経験に鑑みて申し上げますれば……」「いや僕は速度のことを言っているのです。もう少し速度を緩めないと……」「まったくそのとおりです。急いでも何の役にも立ちません。焦りは禁物です」 ひどく暢気にそれらの言葉を発音するや、彼はアクセルを踏みつけ、俺は説得を諦めざるを得ず、シートベルトを締めなおして棒杭のように全身を硬直させることとなったのだった。
 石畳調のブロックで覆われた車道と歩道、ガス燈を思わせる街燈が点々と並べられ、あちこちに石造りのオブジェが飾られている己惚れきった坂道。やはり己惚れきった店――ブティック、カフェ、アンテナショップ、レストラン――が軒を連ねる一区画に着くと、カジヤマは歩道に沿って車を寄せ、俺の方を向いた、「さて、先生、お赦しいただきたいのですが、わたしはここで失礼して先にホテルへ行きまして書類仕事をしなければなりません、そこで先生におかれましてはご存分に取材なさってください。ホテルはそう遠くない所にありまして、ここに地図が……」「いや……、ちょっと待ってくださいませんか。ご存分にって……、それは嬉しいんですがね、僕はこの街を知らないんですよ。そもそもここは何なんですか? あなたの書類にはゴミの処理工場、環境局、埋立地となっていますが、この場所はそのどれに相当するのですか?」「この街はとても小さいので、すぐに一周できますよ。理屈では、本日は完全に移動に割り当てられているのですが、予定よりも早く着いたようですし、見物をご提案申し上げる次第でして。ほら、若者がたくさん歩いていますでしょう。まだ時間もございますし、この提案は如何でしょう? この界隈は、おそらくリョウやアスカといった人物を描写する際に役に立つのでは……、如何です?」俺はそれが如何なる役にも立たないこと、そうでなくても予定より早く着いたのだから自分も休みたい旨、反駁しようとしたのだが、彼は口の端に薄笑いを浮かべてふたたび口を開いた、「それにですね、この通りを下りて行くと、気持ちよい方法で楽しい時を過ごすことのできる場所(訳注2)があるはずです。どうです、先生、たまには少しばかりお寛ぎになられては? そこには電話による逢引クラブ(訳注3)と呼ばれるものもあるようですし、他にもまだたくさん面白いところが。これは先生の取材の範囲内に入りますことを申し添え、費用はすべてわたしの方で負担いたします」それを聞くと、昆虫やら家庭やらの関係のごたごたがあって、また財政的局面も付け加わり、楽しい時を過ごさなくなって久しいので、「ああ、いや、それはあまりに……、何と言っていいのやら? あまりにも、ねえ? 純粋に個人的な費用をあなたが支払うというのは、いや、受け取れませんよ……。ねえ、ええと、でも……、うーん、そう? それが取材に必要だっていうのは、本当? その場合は、僕もくどくど言わないけど……、ですよね?」 俺は軽やかに車を降りた。
 急発進して遠ざかっていくカジヤマの車を目で追って、「何から始めよう?」 調査すると考えられている場所の周囲を見回した。カジヤマは正しかった、お洒落をしたおおぜいの若者が出歩き、歩道に溢れているのだった。彼は楽しい時の地域がこの通りの下にあると明言していたが、闇雲に突き進むのも少しばかり嗜みに欠けていると自覚されて、しばしの間取材のために別の方向に進路を取り、そのついでにビールを奮発したりして、そうこうした後に落ち着いた気分で楽しい時を過ごしに下って行くことにした。そんなわけで俺はぶらぶらと歩きはじめたのだが、すぐに好奇心をそそられる現象に気付いた、というのも、おおぜいの人間がひしめいているのに、通りは奇妙にも静まり返っているのだ。しかも、出くわすかわい娘ちゃんたちは皆、完全に皆が、頭を軽く下げて歩いている。何が言いたいの? すれ違った彼女たちを首をひねって遠回しに観察すると皆が口からだらりとなにやら白くて細い、十センチほどの長さの何か――これまで彼女たちの髪の毛がそれを俺の目から隠していた――をぶら下げてぶらついているのがわかった。謎は深まり、今度は車道の脇の方へと離れて、明確な結論に達するべく観察を続けた、というのも何度か確かめたところ、彼女たちの唇から垂れているのがバーミセリ(訳注4)以外の何物にも似ていなかったからだ。言い換えれば、一般に友達とぶらついている少女というものはさんざめきと陽気なおしゃべりで通りを満たすのだが、それに反して、ここの少女たちはヌードルで静寂を造りだしているのだ……、ゆえにこの街は静かなのだ、以上証明終わり。とは言えやはり誰がこんな事を思いついたのやら! 考察を続けているうちに、今度は、おそらくは湿ったバーミセリが顎や喉につくのを避けるために、わが歩行者たちが下を見ることを余儀なくされる姿勢――顎を、さらに同時に首を前方へ突き出す――を採用し、そのために湯治場などで噴水の役目をするライオンの口に非常に似た印象を与えることに気が付いた。面白い、うん……。気味悪い、うん、半々だな、うん、だがしかし、これを原稿に書いた日には、俳優、技術スタッフ、監督ら全員からの激しい抗議が予想される、「この要領は何なんだ、説明してくれないか? 何が言いたいんだよ?」 と。面白い、だが全然使えねぇ。放っておこう。(それにしても、彼女たちは如何なる目的でそんなことをしているのだろう? まったくわからねぇ。この地方特有の祭りか何かか?) この疑問が俺の歩みを道の上方へと向かわせた。一ブロックの家並みを過ぎると、そこからは歩行者天国となり、ホットドッグ、たこ団子(訳注5)、フライドヌードル(訳注6)、アイスクリーム、偽造ブランド商品、ミニウサギなどの屋台が並んでおり、俺はそこを通り過ぎた。しかし客は稀で、皆、もしくはほとんどの人が無関心に道行を続けている、そして赤く染められた髪(訳注7)の若い売り子たちは忠実に、しかしまるでやる気のない様子で店番をしている。さて、それらの屋台の一つの前、道の真中辺り――他の店よりもやや規模が大きく、それに見合ったテント――に明るい少女たちの列ができており、俺はそれに近づいた、はたしてそこではバーミセリを売っており、入口の所に短い列を作る若い客たちは、それをごく小さな透明のプラスチックの器に少量受け取り、半分ほど啜ると残りを口からぶら下げ、器をその辺の路上に放り捨て、例の湯治場のライオンに似た顔をして、すべてに無関心な様子で去っていくのだった。彼女たちが支払いをしているところを見ていないので、どうやらこれは公に提供された娯楽であり、バーミセリはこの地の特産品、それを町の商工会議所か総会が協賛して無料で配っているのだろう。今の世の中ではバカどもに無分別にその真似をさせるためには若い娘に人気になればじゅうぶんであり、地元の少女たちがバーミセリを口にして歩き回れるのを見れば、旅行者は地方の特産物に食欲をそそられたような気になり、「よし、家にお土産にしよう」と思うのだろう。おそらくこれはふっくらとして赤い頬の地元の娘から配られる青森のりんごのそれを真似た(訳注8)町の宣伝活動の一環に違いなく、いずれにせよ、不思議なことに、この光景に俺もまた同じように唇にバーミセリをぶら下げたいという抑えがたい欲望を掻き立てられたのだった、その結果、俺は少女の群に割り込み、テントの中にもぐり込んだのだが、そこには会議用の長机が長方形を囲むように置かれ、その奥で料理が供されており、羨ましげな様子をした俺はそれを配っている縮れ髪の老人(訳注9)の前に立った。しかし後から来る少女たちはそれぞれ小さなヌードルのカップを受け取るのだが俺には、なし、ほんのわずかの分け前さえも。静寂が支配する中で、俺は最初文句を言うのを躊躇っていたのだが、あからさまな無視に沈黙は長くは続かなかった。俺は老人の目を覗き込んで――「僕にもください」――、しかし相手は首を捻じ曲げて視線を逸らし、聞こえぬふりをする。じじぃ、貴様、わざとだろ。てめぇがそうやってふざけた真似をするんだったら、こっちもやってやる。そして俺はそこを出てテントの車道側に周って老人のすぐ近くへ戻り、その耳に囁いた、「僕にもそれをくれませんかね? 観光客なんだけど……」、脅すような押し殺した声でそう言うと、忌々しそうに舌打ちをしてやっと俺の分をくれたのだった。
 俺はあえて少女たちの真似をし、それを半分ほど啜り込んだ。げぇーっ、とんでもねぇ、ひでぇ味だな! 第一に、ヌードルが歯の下で溶けてしまう、意気地なし(訳注10)、第二に、それらは口が曲がるほどに辛い汁に浸かっている、文字どおり食えた物じゃない、というわけだ。しかしながら俺は無理してそれを飲み込み、おかげでヌードルを垂らしながら温泉のライオンの顔をして足を踏み出すことが出来たわけだが、滑るヌードルを保つために食いしばっていなければならない唇がすぐに俺を不快にし、それが鼻の穴をむず痒くさせ、息苦しくなってくる。すぐに吐き出さずにはいられなくなった。まるっきりつまらねぇ。どうやったら彼女たちはあんなに上手くぶらさげていられるのだろう? そこで感嘆を含んだ疑問を抱いていると、何か別の奇妙なハプニング(訳注11)の予告か、どうやら音楽的な調子が通りの上の方から聞こえてきた。
 三区画ほど上ると坂は徐々になだらかになり、中央に噴水があり、その奥に教会のある広場に出る場所で終わった。その噴水の向こうで、それぞれが違う普段着を着、唯一共通の紙製の三角帽をかぶった二十人ほどの吹奏楽団が何か行進曲風のものを演奏している最中だった。それぞれ自分勝手の服装、それぞれ自分勝手の演奏、手短にかつ率直に結果だけを言えば惨憺たる有様、通りの下の方は人で黒々としているにもかかわらず、広場はほとんど人気がなく、ほとんど演奏など聞いていないくたびれた感じのごく少数の人がいるばかり。そのうえ、数軒の屋台が広場の周りにあるのだが、人通りはまばらでその中の何軒かは店員の姿すら見えない。知らない言語で書かれた看板を見つけて、ビールを一缶とえんどう豆を挽いた粉で作ったフライド・ヌードル(訳注12)を買い、お粗末なコンサートにぼんやりと耳を貸しながら立ち食いした。そうしているうちに、小さなオーケストラは演奏を止めることなく坂下に向かって動きはじめ、俺にとっては楽しい時が俺を呼んでいる、俺をそこへ近づける時が来たと決心する機会、そこでヌードルを捨て、ビールをちびちびやりながら楽隊の後について坂を下りはじめた。広場を後に、俺たちは若者でいっぱいの元来た通りに到達したのだが、そこで行進は急に遅くなった、というのも、普通ならば道を開けなければならないはずの群集は吹奏楽団を通してやろうなどとはさらさら思わず、反対に、何人かの少女は楽士にバーミセリを吐きかけている。先へ進めぬ楽士たちに遮られ、気晴らしに行きたくてたまらない俺は彼らを追い越したいのだが、くそったれ、混雑は相当にひどく、吹奏楽団は徐々に長くなって散り散りになり、すでにそれぞれが自分勝手のようだったのが――お互いの音が聞こえなくなったために――より一層ばらばらになって演奏家の数と同じだけの独立した細片となり、もはや騒々しい音を共有する代物でしかなくなってしまった。真っ赤な顔をした老サキソフォニストがこっちでブー、あっちでプアーと鳴らし、その間に別の奏者が首から下げている小太鼓をめちゃくちゃなリズムで叩いている、つまり、すべてが滑稽極まりない様相を呈し、完全な不協和音となって……。ああ、なんてひどいんだ! まったくパレードをすると決めた時には、まず許可申請を出し、交通の調整やその他諸々の準備をするものだが、唖然呆然、ここの連中ときたら! ちょうどその時、――「どけよ、おい、ヒヨッコどもが! クソガキが! 俺が通るんだ、おら、邪魔だろうがよ?! 馬鹿野郎、ゴロツキが!」――、大きな紙袋を持った、明らかにへべれけに酔っ払った中年の男の怒鳴声、男は危なっかしく前のめりになりながら群集を掻き分けてこちらへとやって来る。しかし声をかけられた方は平然としたまま、少しも避けようとしない、その結果男はわめきつつそのたびに右手を振り回して脅しながら進まなければならない、「失せろ、おら、畜生! やろうってぇのか?! どけどけどけ!!」と。ここまで来て、路上に吐き捨てられたバーミセリの小さな塊に足が横滑りして彼は仰向けに倒れ、紙袋を落としてしまった。その袋は間もなく動きだし、そこから小さなうさぎが逃げ出して、酔っ払いの大損害となり――「くそったれ、俺のうさぎ(訳注13)が!」――と、立ち上がってその後を追ったが、酩酊状態にあるものだから、ふたたびバーミセリの上で滑り、今度は頭から倒れ込み、前から来た若い男と激しくぶつかった。いてててて! 呻きながら額を押さえている男の顔に若者は何も言わずにただ拳を放ち、男は金魚すくいの屋台の上に倒れ込む、そのガラスの生簀は大きく傾いてついには中身とともに地面にひっくり返り、その中身は窒息しはじめ、それを見て的屋は直ちに飛び出したがその動きの中で別の通行人に激突、二人は殴り合いを始める。四方八方で悲鳴があがり、喧嘩が勃発する。うしろから激しくぶつかられた俺は避けようとして、しかしその動作の中で紙コップに残っていたビールを前にいた少女の頭にぶちまけてしまい、アメリカ黒人のような服装のその男友達が脅迫的な様子で近付いて殴りかかってきたので、俺は歩道へと逃げ出したのだが、そこへ辿り着く前に何かに躓いて転んでしまった。俺が躓いたのは……、ちょっと前に歩道にキスをした酔っ払いで、その顔は血塗れだった。俺は慌てて起き上がり、店と店の間の一メートルほどの幅の坑道へ駆け込んだのだが、ごみと換気装置の間を縫うそのスラロームの最中なんとも形容しがたいむかむかする臭いにつきまとわれ、やがて十メートルほど行った所でストップした。その場所だけが、ビルが引っ込んで作り上げた一メートル四方の空間で、ごみの堆積、少なくとも一瞥してそう思われたものに占拠されていたのだが、それが何かわかる前に地面に身を丸めたそれが俺へと定めた視線と俺の視線は交わったのだった。それはビニール袋、鍋、糞などなどの中にへたり込んでいた。垢で黒光りする顔の浮浪者。その脇をすれすれに通るのを利用して抱きついてくるのではないか、あるいは糞の上に俺を投げ飛ばす(訳注14)のではないかという思いを嫌悪感とともに抱いた。三十秒ほど躊躇った後で、俺は彼の脇をそそくさとすり抜けた。彼らはどうやって切り抜けて演奏を続けているのだろうか? 狂騒の中、しばらく前から鳴っていたサイレンに混じって音楽はいまだ聞こえていた。浮浪者は少しも動かなかった。

訳注1 原書では“トラック”になっているのだが、なぜか仏訳書では“タクシー
     (車)”になっている。
訳注2 原書では“お遊びの方”となっている。
訳注3 言うまでもないが、原書では“テレクラ”。
訳注4 スパゲッティより細いパスタの一種。ちなみに原書では“素麺”になってい
     る。
訳注5 言うまでもないが、原書では“蛸焼”。
訳注6 原書では“焼蕎麦”。
訳注7 原書では“髪を金色に脱色した”となっている。
訳注8 原書では“青森りんご娘式の”となっている。
訳注9 原書では“パンチパーマの親爺”。
訳注10 原書では“素麺はだらだらにのびきっているし”となっている。
訳注11 意外性や自発性を本質とする見世物、芝居。
訳注12 仏訳ではなぜかフライド・ヌードル、訳注6にあるように“焼蕎麦”だが、
     原書では“麺麭”になっている。
訳注13 原書では“ミニ兎”となっている。また仏訳では単数形だが、原書では複数
     である。
訳注14 原書では“人糞を投げつけたりする”となっているが、なぜか仏訳では投げ
     飛ばされるのは“俺”である。




 



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