猿との苦難


<第五回>

6
 俺は学校のような所の庭で女受刑者が争うバレーボールのトーナメント戦を観戦していたのだが、その時、男が正門に現われ、雌牛の牛糞を空中に投げ、絶叫しながらその射程距離に入った人々に刀で切りつけはじめた、俺はと言えば、その男がここまで来ることはなかろうと考えてまったく取り乱すことなかったが、俺の視線は不幸にも彼のそれを引きつけてしまい、気狂いはこちらへまっすぐに歩いて来、俺は逃げようとしたのだが足は言うことを聞かなくて! ビシャッ! 牛糞が俺の顔で弾け、刀の一閃が腕を切断……、うわぁああああー!! 俺自身の悲鳴が俺を目覚めさせた、午前三時、汗にまみれて……。さてさて、なんて気色悪い悪夢を見たものだろう! 俺は蒲団の真中に座って……。おや、明かりをつけっぱなしで眠っていた。本当にひどく疲れていたようだ。吸いさしの煙草はその辺で見つかるに違いない……。ポケットを探り、一本に火を点け、少しずつ、感覚が現実に戻ってくるに従って、腕がずきずきと痛んでいるのがわかってきた。俺はそれを気狂いの刀で切られ、失った、夢の中で。しかし苦痛はどうしようもなく現実的なものだった。これ、どういうこと? 手の甲から肘まで腫れあがっているのを見てとった、そこにあったのは薪だった、指の下で腫れ、焼けつくようだった……。あの忌々しい虫かぁっ! まだ死にやがらないのか? 裸電球の黄色い光をたよりにびくびくと辺りを見回すと、薬剤が何らかの変異を引き起こしたのだろうか、獰猛で巨大な虫――俺が知っているのよりも少なくとも二倍は大きく、黒光りしている――が人の肉を狙い、戦闘を開始したくてたまらないかのようにして、襖の上の方にたかっていた。こんな時に人は何と言うだろう、俺は思いついた、何なんだこいつは! だ。 俺のいる場所から、その足先を覆っている細い毛のようなものとその触覚の鋸の歯の形をはっきりと見分けることができた。じりじりとする動きのたびにその殻から何とも不快な黒い粉の薄い雲を落とした……。やめてくれ! そこから俺を見ないでくれ! ほっといてくれってば。いい子にして、あっちへ行っておくれ。それもできる限り慎ましやかに。以上のような黙祷を俺は繰り返していたのだが、驚くべきことに奴はかすかな羽音とともに飛翔、そしてパシャッ! 電球にクラッシュ、方向転換したのである。奴はどこだ? どこに潜り込んだ? 俺は激しい恐怖に固まった。奴はすぐそばにいた、皺くちゃの毛布の匂いを嗅ぎながら。ぶわぁぁぁー! と三度叫んで、床を覆う死んだ奇妙な生物の硬い殻を踏み潰すのを覚悟して廊下へ飛び出したのだが、突然、殻から出た体液に横滑りし、向かいの小部屋に辿り着いた時は四つん這いになっていた、そして俺は後ろ手にぴしゃりと扉を閉めた――びくびくだぜ、まったくよ! しかし畜生、あの虫はいったい何なんだよ?――心臓がバクバクいっている。そして俺の腕は、痛ぇ! 耐えられない。おそらく明日は病院へ行かなければならないだろう、なあ、そして医者と薬にまた金がなくなるのにちがいない。おや、そうだ! この件をうまく話せば、カジヤマの親父に勘定書きを掴ませて苦境を脱することができるぞ。うん、いいじゃん、でもカジヤマに関しては、当然のことながら、今日起きたことについて文句を言わなければならないな。そのとおりだぜ。鑑みるに、あんたの地図がなってねぇんだ! 腕は痛ぇし、腰にもまだ痛みがあるんだよ、クソじじいが。それはさておき、俺はあの虫どもが何なのか知りたくなってきた。そのためには、専門家が調べなければならないのだろうか? ああ、そうか? これも同じなんだから、上手く立ち回って、カジヤマの名前での諸経費に回すことができるな……。要するに、俺はこうしてくだくだと考えたのだ、電気のスイッチを手探りで探しながら、そして探し当てることに成功した。ふたたび三度のぶわぁぁぁー! 羽のある獰猛な食人種の無数の群が蠢き、臭いを嗅ぎながらびっしりとたかっていたのだ、窓の木枠に沿って。“頭と心を消滅させろ、そうすれば火もまた涼しくなる”、かつて思想家がこのようなことを言った、はっきり言えば、こういうことを言っている、もしも無念に達したならば、火でさえも涼しく感じられるだろう。ああ、そうさ、いずれにせよ、このくそったれの蚊帳だよ! 一時間ほど俺は頭と心を消滅させようとしていたのだが、これは無駄で、どちらもじっとしているのはどうしても嫌だと言い張った。己の汗の中に文字どおり浸かってしまっているのだから計算外れも同様だった、そしてそのとおり、と俺は考えた、ガキの頃から俺は常にその場凌ぎだけで苦境を脱してきたんだ、哀れな間抜けだぜ、まったく、当然こうなるしかないんだよ! ――俺の精神に到来したのは以上のような不毛な思考のようなものだった。ああ、まったくそのとおり、こんなこと考えて何になるというのか! 結局、俺は責務を招き、蚊帳の中で頭と心を消滅させることになったのだ、これは頑なに要領の良さだけに頼ってきたせい以外の何物でもなく、もし俺がただちに害虫駆除業者に助けを求めていれば、頭を空っぽにするためにその頭を悩ませることもなかったのだろう。しかしかように、専門家を探し、電話をして会う約束を決めるという労力――実際には取るに足りない――を俺は惜しんだのだ……。日曜大工の店のキャンプ用品売場で偶然見つけたこの蚊帳、それを買えば虫どもは入ってこない、だろ? うわぁおう、素晴らしい考えだ、素晴らしい、素晴らしい! そしてご覧のように蚊帳を買った、その下が暑くて死にそうだなんて、またまるで実用的でないだなんて知らずに、すべてが安易。言うまでもないが情けねぇ、しかしずうっと(訳注1)情けながっていることもできない、地獄の熱が頭と心を消滅させることを不可能にするのだ。さて、さあ消滅しよう、と独りごち……。しかし、しかし、別の見方をすれば……。考えることを我慢できないなぁ……。で? そう、最悪の選択をしたのではない、と俺は理性的に考えることができる。説明しよう、暑さ、そして頭と心が俺をてこずらせている、そのとおりだ、しかし早ければ今月いっぱいで、遅くとも来月前半には立ち退かなければならなくなるのだ、有害な小動物の専門家を来させて何になるだろう、であるならばとにかく、蚊帳と消滅の助けによって、残りの数週間を耐えるしかないであろう、そして、あとは野となれ山となれ(訳注2)! 新しい住まいでの快適な生活が俺を待っているのだ。そうなのだ、しかしそのためには急いで現地調査を終わらせ、仕事にとりかからなければならない。それで思い出したのだが、おい、蚊帳の網が多少とも隠している棚の上の振子時計を見ながら俺は独りごちた、一時間半も消滅していたのだな、もう十時過ぎだ、そして約束の時間は九時だったのだ。まったく、何をもたもたしているのか? そもそも、彼が時間を守っていれば、俺はこの蚊帳の業火の中で長い間待つ必要はなかったし、従って消滅の練習に没頭する必要もなかったのだ……。ったく、何様のつもりだよ? 怒りが俺を捉え、それが大量の汗の中でカジヤマが電話で言った言葉を思い出させて著しく増大していくのを感じた、そして、もはや消滅どころではなくなった。「あなたのいいかげんな地図のせいで、酷い目に合わされたんですよ! どんな事でもはっきり言いますけど、適当に書いたんじゃないんですか?」 カジヤマは俺の抗議にしらばっくれた様子で応えた、「私のミスで起きた厄介事については誠に心を痛めておりますことおわかりですね。しかしながら、こう申してよければ、先生、今お話しくださった体験はたいへん得難いものに違いないと申せましょう。それは先生のシナリオによりリアルなタッチをもたらすことになるでしょう。お話を聞いた今、先生、この映画の成功について私はもはやわずかな疑いもございませんよ」 こういうことは、妙ちきりんなガードマンに私刑を加えられてから聞きたいものである、「ともかくですね、もう殴られるのはご免です、もうたくさんだ!」「もちろんですとも、当然至極です! これから行かねばならない二箇所には、あらゆる災難を回避するために私も同行するつもりです。いかがですか、先生? けっして最重要の問題があるというわけではないのですが、私もまた、出資者と何点か話し合わなければならないのですよ、明日出発で二日ほど留守にするというのはいかがでしょう? 急がせるようで申し訳ないのですが……。もちろん、これにわずかなりとも不都合がございますれば、私の方で調整いたしますことを言い添えておきます」 不都合だって? 如何なるものもないね、俺の望むもののすべて、それは速やかに仕事を終え、金を受け取ることである、「それでは、明日の九時に家で待ってます、それでいいですね? 了解です。間違いなく、じゃあ、頼みますよ」 俺は電話を切った。そして相変わらず来ていないのがそのカジヤマだよ! 俺は熟考していた――一度やめると脅すか?
 家で仕事をすることの不可能性を口実に街に部屋を取らせるか?――その時、玄関が乱暴なノックで揺れた。やっと、来たよ! 「お待ちください!」 俺は叫び、ジッパーをいちばん上まで上げて革ジャンを身に着け、次に革の手袋、その後で防虫ネットで頭を覆い、その上からフルフェイスのヘルメット、その後でスキー靴を履き、そしてやっと蚊帳を上げて外へ出て……、そう、外へ出ると言っても、それは物の言い方であって相変わらず家の中にいるのだが、俺はみしみし軋み、覆い隠された廊下を走った。
 面と向かい合ったのはカジヤマではなく、義父。彼は俺のおかしな格好を眺めながら、かなり不満げな調子で話しかけてきた、「おいおい、その身なりは何なんだ? ふざけてるのか?」「いえ、あのう、ふざけているわけではまったくなくて、いや、あのう、ここでは何ですので」「黙れ。それに新聞をそこら中に散らかして、説明してくれんかね? ともかくヘルメットを脱ぎなさい、こんな風でどうやって話をするのかね!」「でもこれを取るのは危険でして」「聞いていたのかね、君? ちゃんとしなさいよ、ほら!」 義父は本気で怒りだした。しかしその場で委細顛末を説明している暇はない。これは完全防御措置のおかげで前日から人肉を食べていない虫たちが飢えによって異論の余地なくより獰猛に、より手に負えなくなっているという確かな理由からで、その証拠に奴らはすでに攻撃的なぶんぶんという音とともに義父の頭の上に黒い粉を撒き散らしながら輪を描いているのだ。そして義父、彼は怒りに満ちて、何一つ気付かずにいた! 要するに、早急に蚊帳の下の避難所に移動させるべきで、俺は義父に勧めた――「そのまま……、そこはそのままで、お義父さん、さあ中へ」――、しかし彼は、――「いったい何だってそんなに急かすんだ? まったくおかしな奴だな、君は」――、などと言いながら、靴を脱ぐために廊下の縁に腰をおろした。「わあ、駄目、それは駄目! 靴は脱がないで。奴らが足を狙うし、ベトベトなんです、潰れた死体で」――「わけのわからんことをべらべらと、馬鹿か? どこか悪いのかね?」と、俺の警戒になどまったく気付かず、義父は靴紐を解くのに没頭し、前屈みになっていたが、靴を遠ざける肥満によって困難になった作業は義父に様々な呻きを漏らさせた。そうこうするうちに――俺は何て言ったよ、おい!――、虫たちは下駄箱の上に密集して触角を震わせ、そして群全体がじりじりしはじめた。
差し迫った攻撃の兆候。万事休す! 俺は心の中で言って、義父を説得するためにしゃべるのは諦め、非常手段、力ずくで蚊帳の下へ連れて行くことをを選択、そのために、背後から、義父の腋の下へ手を差し入れ、引っ張った――「早く、早く来て!」――しかし義父は激しく抵抗する――「どうしたんだ? 放せ、やめろ!」――、俺は義父の腰を引き寄せ、押しあい圧し合いし、そして数秒後、メリメリメリメリッという音が響き、転落、俺たちは一緒に床を突き破った。シロアリが土台に蔓延しており、もはやぼろぼろの状態になっていたのだ。床がその上でじだばたする二人の重さに直ちに屈したのは驚くべきことではなかった。立ったままの格好で落ちた俺はすぐにそこから抜け出すことができたのだが、義父、彼は尻から落ち、並大抵のやり方では抜け出せない状態にあり、ゆえに俺は彼を引き上げるのに苦労したのだが、その間に肉食昆虫の群が俺たちの脚に顔に襲いかかり、義父は嘆きのような奇妙な悲鳴をあげて気絶した。
 

訳注1 直訳すると“百七年”となる。 
訳注2 直訳すると“俺の後には大洪水”となる。




 



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